足尾 松木村 続報!!! 星野金治郎~現代に繋ぐ!!!
<< 足尾銅山鉱毒事件を追え![エピローグ]からの続き
ノスタルジックハンターは、今日から仕事でした(涙)。
この現実が受け止められない・・・。
実はノスタルジックハンターは仕事があまり好きではないのです。
いつまでもノスタルジックにふけっていたい。(うぇ~ん)。
大好きなお酒を飲みながら、ブログを書いていたい!(涙)。
・・・、何度も言うように、ノスタルジックハンターは、中身は子供なんです。

さて!気を取り直して!!!
前回、松木村は1901年に廃村となり、住民がいなくなったような情報を伝えました。
でも実は1950年くらいまで松木村にすみ続けた人物がいたのです。
彼の名は『星野金治郎』!!!
1901年12月、足尾銅山側と交渉が行われ、残留村民24名(24家族)全員が、全村を銅山側に4万円で売却し一年以内に移転することで合意が成立した。救済会が仲介を行ったのは、松木の荒廃が鉱毒被害であるというように銅山側が事実上認めたためであるとされている。
松木の不動産の所有権移転登記が行われたが、村民の星野金治郎は別の用があり、当日、登記に参加できなかった。これに対し、銅山側は登記日が同一ではないと困ると苦情を申し立てた。これに対し星野は激怒。移転登記は行わず、死ぬまで絶対に松木から出ないと宣言した。星野とその息子の2名を除く残留村民23名は、足尾鉱毒被害救済会に感謝状を贈り、村を出た。なお、星野以外の不動産所有権移転登記は主に1901年12月27日に行われ、1902年1月までに完了した。
星野は宣言どおり村に住み続け、立ち退こうとしなかった。移転登記が行われなかったため、銅山側も合法的に星野を旧村外に移転させることができなかった。銅山側は、たまたま星野宅付近に銅山施設で使用する水の取水口があったことから、星野は取水口の水番として雇っているということにして、それ以上星野に立ち退きを求めなかった。
銅山側は買収した松木の土地を堆積場とし、『カラミ』などを次々に捨てはじめた。しかし、堆積場に行くためには、星野の土地を通らなければならなかった。星野は銅山側が土地を通ることを認めなかったため、ここでも紛争がおきてしまった。この紛争は後に星野が移転するまで続いたという。
最終的に、旧松木村の下流部に足尾ダムができると、1951年ごろ(1949年説あり)、星野親子は村を出て完全に無人化、約1200年にも及ぶ歴史にひっそりと幕を下ろしたのである。
そして現在。
『100年以上前の松木村を再現したい!』という活動がある。
この中で、最新の松木村の情報を伝承している人物が『川田勉』という人物。
この人物が伝えている情報は、先の『星野金治郎』の息子『星野金平』から聞いた情報だそうだ。
つまり、
"松木村廃村"→『星野金治郎]』→『星野金平』→『川田勉』→"現代"に情報が伝達されたのである。
そして今、100年以上前の『松木村』が、正確に復活しようとしている。
(私がPhotoshopでグリグリやった映像ではなく・・・。)
このことから歴史を伝えるために必要なのは、
技術的な媒体ではなく、人々の記憶なのである!
ということ。
ノスタルジックハンターは、松木村の活動を心からに支援したいと思っています。
2009.10.16 新しいブログに統合しました。ノスタルジックハンターは、今日から仕事でした(涙)。
この現実が受け止められない・・・。
実はノスタルジックハンターは仕事があまり好きではないのです。
いつまでもノスタルジックにふけっていたい。(うぇ~ん)。
大好きなお酒を飲みながら、ブログを書いていたい!(涙)。
・・・、何度も言うように、ノスタルジックハンターは、中身は子供なんです。

さて!気を取り直して!!!
前回、松木村は1901年に廃村となり、住民がいなくなったような情報を伝えました。
でも実は1950年くらいまで松木村にすみ続けた人物がいたのです。
1901年12月、足尾銅山側と交渉が行われ、残留村民24名(24家族)全員が、全村を銅山側に4万円で売却し一年以内に移転することで合意が成立した。救済会が仲介を行ったのは、松木の荒廃が鉱毒被害であるというように銅山側が事実上認めたためであるとされている。
松木の不動産の所有権移転登記が行われたが、村民の星野金治郎は別の用があり、当日、登記に参加できなかった。これに対し、銅山側は登記日が同一ではないと困ると苦情を申し立てた。これに対し星野は激怒。移転登記は行わず、死ぬまで絶対に松木から出ないと宣言した。星野とその息子の2名を除く残留村民23名は、足尾鉱毒被害救済会に感謝状を贈り、村を出た。なお、星野以外の不動産所有権移転登記は主に1901年12月27日に行われ、1902年1月までに完了した。
星野は宣言どおり村に住み続け、立ち退こうとしなかった。移転登記が行われなかったため、銅山側も合法的に星野を旧村外に移転させることができなかった。銅山側は、たまたま星野宅付近に銅山施設で使用する水の取水口があったことから、星野は取水口の水番として雇っているということにして、それ以上星野に立ち退きを求めなかった。
銅山側は買収した松木の土地を堆積場とし、『カラミ』などを次々に捨てはじめた。しかし、堆積場に行くためには、星野の土地を通らなければならなかった。星野は銅山側が土地を通ることを認めなかったため、ここでも紛争がおきてしまった。この紛争は後に星野が移転するまで続いたという。
最終的に、旧松木村の下流部に足尾ダムができると、1951年ごろ(1949年説あり)、星野親子は村を出て完全に無人化、約1200年にも及ぶ歴史にひっそりと幕を下ろしたのである。
そして現在。
『100年以上前の松木村を再現したい!』という活動がある。
この中で、最新の松木村の情報を伝承している人物が『川田勉』という人物。
この人物が伝えている情報は、先の『星野金治郎』の息子『星野金平』から聞いた情報だそうだ。
つまり、
"松木村廃村"→『星野金治郎]』→『星野金平』→『川田勉』→"現代"に情報が伝達されたのである。
そして今、100年以上前の『松木村』が、正確に復活しようとしている。
(私がPhotoshopでグリグリやった映像ではなく・・・。)
このことから歴史を伝えるために必要なのは、
ということ。
ノスタルジックハンターは、松木村の活動を心からに支援したいと思っています。

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